小説と映画の間
異端の鳥『The Painted Bird』
2020年に読んだ小説、観た映画ともにNo. 1だった。本を読んだのは映画を観たあと。
http://www.shoraisha.com/main/book/9784879842602.html
http://www.transformer.co.jp/m/itannotori/intro-story/
物語の舞台は第二次世界大戦下の東欧、ロシア。家族と離れたひとりの子供が、身も心も徹底的に痛めつけられる。
子供はユダヤかジプシーか、明言されない。だが、相対する人々の嫌悪と攻撃はただごとではない。
子供はその身を置く場所を転々とする。形として保護される大人が死んだり、仕打ちに耐えきれず逃げ出したりしながら。
映画では目を覆うようなシーンが、小説ではくどいほど描写されながら美しい。繰り返し現れる生き物の死。繰り返し出会う人間の嗜虐。
映画のカメラは残酷極まりないが、小説の筆致は淡々として幻想的だ。客観的な第三者の目と、混沌たる一人称の違いであろう。しかし小説のほうが、実は残酷なのかもしれない。「わからない」ことは現実を直視させず、現実を直視できなければ何故こんなに酷い目に合うのか、どうすれば活路が開けるのか、「わからない」。そのいたましさ。彫琢された言葉によって、あからさまな映像よりも露わにされるいたましさを知る。
結局子供は生きのびた。それはいたましき果ての希望というより、いたましさそのものの肯定と思えた。
若草物語『Story of My Life』
私の世界に本しかなかった私のバイブルといえば、「若草物語」「赤毛のアン」「あしながおじさん」。
とはいえ、並行して「トム・ソーヤーの冒険」「十五少年漂流記」「宝島」も読むよね。
少女の少年、少年の少女が、グレタ・ガーウィグ監督「ストーリー・オブ・マイライフ」の中に生きていた。いわゆるメタフィクションなのだが、原作を読んだことがない人でも軒並み「よかった」と言う。読んでなかったら咀嚼できない演出がいっぱいあるのに。
https://www.sonypictures.jp/he/1258032
オルコット作松本恵子訳を読み返す。
https://www.shinchosha.co.jp/book/202903/
いきおい第二・三・四若草、アンシリーズ、あしながおじさんの続編と、すべて読み返してしまう。
ベア学園の話、だらだらと続くアヴォンリーの話、主人公をバトンタッチして孤児院を経営するサリーの話は、さだ過ぎた少年少女の物語だった。きらきらの少年で少女の頃とは違う読後感に浸る。冒険が終わっても楽しいことはまだまだ続くし、楽しくないことが面白いこともあるし。
アリ・スミス、あるいは『TENET』
今年のトピックはアリ・スミス一択。もちろん彼女の作風は、ポストモダンにおいて使い古された手法だと誰もが知っている。
ギミック。同時代の映画にも夥しく散りばめられたギミック。つまり仕掛けということなんだけれど、仕掛けにいつ気付くか、気付いたうえで楽しめるかどうかが、いつの時代の本読みにもシネフィルにも試されている。たとえばシャマランの映画なんかもそう。
https://www.shinchosha.co.jp/book/590152/
クリストファー・ノーラン監督「テネット」は、いろいろ物議をかもしながら多分忘れられていく。アリ・スミスの著作が忘れられていくのと同じように。
https://wwws.warnerbros.co.jp/tenetmovie/index.html
どちらもいっぱいギミックが効いていて、読んでいる間、観ている間、頭はフルに使うしとてもワクワクするのだけど、来年には忘れているんだろうなあ。
ギミックの賞味期限は短い。今しっかりと味わっておかなければ。
ペストとゾンビ ー クローネンバーグ『Rabid』ジャームッシュ『The Dead Don't Die』
今年カミュの「ペスト」を初めて読んだ人はいますか? 私のことですか?
こんなことにならなければ、こんな本は読まなかった。
https://www.shinchosha.co.jp/book/211403/
クローネンバーグの「ラビッド」は、1977年のパンデミック映画。いっぽうジャームッシュのゾンビ映画は、もっと早い公開の予定が今年になったもの。
両作品にあまり距離がないことに絶望する。カミュのペストともそんなに距離がない。怖いね。
ジャームッシュの映画にあるヘンテコSFみが救いかと思う。SFとしか思えないもの、こんな世界。明日の夜にはUFOが飛んでくる。
https://www.google.co.jp/amp/s/eigakaita.com/horror/rabid-1977/%3famp=1
https://longride.jp/the-dead-dont-die/
エトガル・ケレット『あの素晴らしき七年』から『OUTSIDE』へ
小説の言葉を身体に置き換える試み。映画よりもっと生々しいフォーマット-舞踊や演劇-は、ひょっとしたらかなり小説に近いのではないだろうか。
イスラエルの作家エトガル・ケレットの最新作をモチーフに、インバル・ピントが振付けたのは、閉じ込められている私たちの体。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/22427
言葉と肉体の関係、というか、まず肉体があって、脳はあとからついてくる。何かをつかむ指、まばたきする目、歩いたり走ったりする足は、思考しない。考えるより先に反応している。
もしかして言葉も、と思う。言葉も体から生まれるはず。脳からじゃない。脳は辞書みたいなもので、都度現象を補足してくれるけれど、現象そのものには関与しない。言葉といううつわは、体が覚えたことを改めて掬い取っていくだけ。
「魔法使いがはじめて呪文をうまく使えた時」。『あの素晴らしき七年』に出てくるフレーズだ。
https://www.shinchosha.co.jp/book/590126/
言葉である呪文が体を通して立ち上がる。小説の中の輝くワンフレーズによって、世界が一変するような魔法が発動する。ケレットはそれをよくわかっている。