クリスマスには外国の本

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クリスマスプレゼントはいつも本だった。

最初の記憶は小学校に上がる直前。ポーランドから『ぞうのドミニク』がやって来た。長新太のファニーな挿絵に惹かれ、自分からねだった。翻訳は内田莉莎子。未就学児のために、父親はすべての漢字に手書きでルビを振った。

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ドミニクは「ぞうの薬屋」のマスコットで、真っ白な陶器の象である。さながらサトちゃんとかケロヨンとか。町の人々に愛されていた。ところが薬屋は突然リニューアルを図り、「ライオン薬局」になってしまう。ドミニクに代わってライオンがマスコットとなり、薬局の入るビルの屋根裏にドミニクは打ち捨てられてしまった。

長い長い時が経ち、真っ白だった体は薄汚れ、同じように捨てられた図鑑や家具のお喋りを聞きながら、ドミニクは日々を過ごしていた。そんなある日、ビルのアパートに住む小学生のピーニョが屋根裏に現れる。

「なんて素敵なぞうだろう!」ピーニョはドミニクを一目で気に入り、家に持ち帰った。鼻の頭にそばかすのある男の子。「そばかす」は外国小説でしか見ない言葉である。そばかす!なんて素敵な響きだろう!きれいに磨かれて、ドミニクは昔のように真っ白な体を取り戻した。そして、ピーニョの部屋の本棚の、段と段の間に大切に置かれた。

同級生に比べ身長が低いことを気にする母親に、ピーニョはビタミン剤を飲まされていた。それが嫌でたまらなかった彼は、ドミニクを持ち帰った日からビタミン剤をぞうの口や鼻に放り込むようになる。ドミニクはちょうど良い具合に鼻を掲げ、口を開けた姿をしていた。

ほどなく、ピーニョはドミニクが棚の間でぎゅうぎゅうになっているのに気づく。「おや?こんなに大きかったかな?」不思議に思いながら、本棚の天板の上にドミニクを移し、その日もビタミン剤を放り込んだ。

このまま書き続けてしまうとネタバレになるのでやめるが、ドミニクのドラマはどんどんふくらんでいく。ふつうのぞうより大きくなり、動き、喋り始める。びっくりするような展開に、頁をめくる指が止まらない。「そばかす」をはじめ、未知の固有名詞にもわくわくした。中にふとんがしまえるベッドの「タプチャン」。テレビで放送される「アイスホッケー」の試合。ポーランドの通貨「ズウォティ」、ビーツと思われる「赤かぶ」を使った料理。(父のルビは「あかぶ」になっていた。仕事で疲れていたのだろう)漢字もわからず、ポーランドがどこにあるのかも知らない子供がクリスマスに読んだ「外国の本」は、以降ずっと子供の心を支配し続けた。翌年のクリスマスプレゼントはエンデの『サーカス物語』。矢川澄子訳、司修挿絵。その次も、次の次も、クリスマスには外国の本がやって来た。

おそらく外国の本は、翻訳と挿絵によって子供の心を掴んだのであった。ドミニクを訳した内田莉莎子は内田魯庵の孫で、洋画家内田巌の娘である。ポーランドに留学し、ロシア文学を研究した彼女の味わい深い訳文は、数多くの露・東欧児童書で読むことができる。大人になって神戸の小磯記念美術館を訪れたとき、偶然、巌の描く莉莎子の肖像画に遭遇した。椅子に座った横向きのシルエットはふっくらと柔らかく、何か外国の本を手に携えていた。

Translations

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『マーティン・エデン』について

つまりジャック・ロンドンについての話だ。びっくりすることに舞台はイタリアだった。

ジャック・ロンドンってイタリア人だっけ?

映画はまるで『ニュー・シネマ・パラダイス』のクソつまんなかった青年パートを撮り直したかのよう。

https://youtu.be/IScZ3MmK1gs

当然翻案だった。ジャック・ロンドンに当たる主人公の顔が伊勢谷友介に似ていた。

https://www.hakusuisha.co.jp/smp/book/b373640.html

『野性の呼び声』を読んだのは小学校低学年だったと思う。龍口直太郎訳と思っていたが、調べると違うような気がする。その頃お気に入りだったのは、シートン動物記、ファーブル昆虫記、ビアンキ『森の新聞』、椋鳩十

動物や虫が好きというより、動物や虫が出てくる「お話」が好きだった。だいたい子供向けの絵本や読み物には、当たり前のように動物が出てくる。

Winnie-the-Poohパディントンピーターラビット、ミス・ビアンカドリトル先生シリーズは動物ものの集大成だろう。

ジャック・ロンドンの『野性の呼び声』は、それらの物語とは、いくぶん様子が違っていた。主役の犬は擬人化されていないし、ほのぼのファンタジーでもない。読み終えてのち、長い間呆然としていた記憶がある。

感動して泣く、というのでもない。いきおい影響を受けて何か書く、というのでもない。(小学生の頃、何か読むとすぐ影響を受けてマルパクの小説もどきを書いていた。ルパンやホームズとか、あしながおじさんの手紙形式とか)

残ったのは乾いた脈動。

シートンやファーブルの博物誌的な叙述と、『森の新聞』の風土性と、椋鳩十のパセティックを足してなお乾いたエモーションがあった。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784806300076

『マーティン・エデン』のイタリアも、子供の頃の読後感と同じように乾いていた。海がひらけて船が揺れて、登場人物たちは激しく喚いたり愛し合ったりする。エモーションたっぷりなのに、画面はカラカラに乾いた生に満ちていた。

翻案は成功だったのだろうか? 『野性の呼び声』の執筆秘話も小説のワンフレーズも、映画の中には出てこなかったのだけど。

小説と映画の間

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異端の鳥『The Painted Bird』

2020年に読んだ小説、観た映画ともにNo. 1だった。本を読んだのは映画を観たあと。

http://www.shoraisha.com/main/book/9784879842602.html

http://www.transformer.co.jp/m/itannotori/intro-story/

物語の舞台は第二次世界大戦下の東欧、ロシア。家族と離れたひとりの子供が、身も心も徹底的に痛めつけられる。

子供はユダヤかジプシーか、明言されない。だが、相対する人々の嫌悪と攻撃はただごとではない。

子供はその身を置く場所を転々とする。形として保護する大人が次々に現れ、彼らが死んだり、彼らの仕打ちに耐えきれず逃げ出したりしながら。

映画では目を覆うようなシーンが、小説ではくどいほど描写されながら美しい。繰り返し現れる生き物の死。繰り返し出会う人間の嗜虐。

映画のカメラは残酷極まりないが、小説の筆致は淡々として幻想的だ。客観的な第三者の目と、混沌たる一人称の違いであろう。しかし小説のほうが、実は残酷なのかもしれない。「わからない」ことは現実を直視させず、現実を直視できなければ何故こんなに酷い目に合うのか、どうすれば活路が開けるのか、「わからない」。そのいたましさ。彫琢された言葉によって、あからさまな映像よりも露わにされるいたましさを知る。

結局子供は生きのびた。それはいたましき果ての希望というより、いたましさそのものの肯定と思えた。

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若草物語『Story of My Life』

私の世界に本しかなかった私のバイブルといえば、「若草物語」「赤毛のアン」「あしながおじさん」。

とはいえ、並行して「トム・ソーヤーの冒険」「十五少年漂流記」「宝島」も読むよね。

少女の少年、少年の少女が、グレタ・ガーウィグ監督「ストーリー・オブ・マイライフ」の中に生きていた。いわゆるメタフィクションなのだが、原作を読んだことがない人でも軒並み「よかった」と言う。読んでなかったら咀嚼できない演出がいっぱいあるのに。

https://www.sonypictures.jp/he/1258032

オルコット作松本恵子訳を読み返す。

https://www.shinchosha.co.jp/book/202903/

いきおい第二・三・四若草、アンシリーズ、あしながおじさんの続編と、すべて読み返してしまう。

ベア学園の話、だらだらと続くアヴォンリーの話、主人公をバトンタッチして孤児院を経営するサリーの話は、さだ過ぎた少年少女の物語だった。きらきらの少年で少女の頃とは違う読後感に浸る。冒険が終わっても楽しいことはまだまだ続くし、楽しくないことが面白いこともあるし。

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アリ・スミス、あるいは『TENET』

今年のトピックはアリ・スミス一択。もちろん彼女の作風は、ポストモダンにおいて使い古された手法だと誰もが知っている。

ギミック。同時代の映画にも夥しく散りばめられたギミック。つまり仕掛けということなんだけれど、仕掛けにいつ気付くか、気付いたうえで楽しめるかどうかが、いつの時代の本読みにもシネフィルにも試されている。たとえばシャマランの映画なんかもそう。

https://www.shinchosha.co.jp/book/590152/

クリストファー・ノーラン監督「テネット」は、いろいろ物議をかもしながら多分忘れられていく。アリ・スミスの著作が忘れられていくのと同じように。

https://wwws.warnerbros.co.jp/tenetmovie/index.html

どちらもいっぱいギミックが効いていて、読んでいる間、観ている間、頭はフルに使うしとてもワクワクするのだけど、来年には忘れているんだろうなあ。

ギミックの賞味期限は短い。今しっかりと味わっておかなければ。

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ペストとゾンビ ー クローネンバーグ『Rabid』ジャームッシュ『The Dead Don't Die』

今年カミュの「ペスト」を初めて読んだ人はいますか? 私のことですか?

こんなことにならなければ、こんな本は読まなかった。

https://www.shinchosha.co.jp/book/211403/

クローネンバーグの「ラビッド」は、1977年のパンデミック映画。いっぽうジャームッシュゾンビ映画は、もっと早い公開の予定が今年になったもの。

両作品にあまり距離がないことに絶望する。カミュのペストともそんなに距離がない。怖いね。

ジャームッシュの映画にあるヘンテコSFみが救いかと思う。SFとしか思えないもの、こんな世界。明日の夜にはUFOが飛んでくる。

https://www.google.co.jp/amp/s/eigakaita.com/horror/rabid-1977/%3famp=1

https://longride.jp/the-dead-dont-die/

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エトガル・ケレット『あの素晴らしき七年』から『OUTSIDE』へ

小説の言葉を身体に置き換える試み。映画よりもっと生々しいフォーマット-舞踊や演劇-は、ひょっとしたらかなり小説に近いのではないだろうか。

イスラエルの作家エトガル・ケレットの最新作をモチーフに、インバル・ピントが振付けたのは、閉じ込められている私たちの体。

https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/22427

言葉と肉体の関係、というか、まず肉体があって、脳はあとからついてくる。何かをつかむ指、まばたきする目、歩いたり走ったりする足は、思考しない。考えるより先に反応している。

もしかして言葉も、と思う。言葉も体から生まれるはず。脳からじゃない。脳は辞書みたいなもので、都度現象を補足してくれるけれど、現象そのものには関与しない。言葉といううつわは、体が覚えたことを改めて掬い取っていくだけ。

「魔法使いがはじめて呪文をうまく使えた時」。『あの素晴らしき七年』に出てくるフレーズだ。

https://www.shinchosha.co.jp/book/590126/

言葉である呪文が体を通して立ち上がる。小説の中の輝くワンフレーズによって、世界が一変するような魔法が発動する。ケレットはそれをよくわかっている。